偶然の発見から睡眠研究の道へ
動物はなぜ眠るのか。〝眠気〞はいったいどこから訪れるのか。筑波大学・国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)は、この疑問の解明に取り組む世界唯一の基礎睡眠学研究機関である。
「脳の様々な機能が急速に明らかになっていますが、〝眠気〞に関しては、まったく解明が進んでいません」
そう話す柳沢正史教授は、同機構に集まる国内外の一流の研究者たちを束ねる睡眠研究の世界的権威であり、日々、神経科学、薬学、有機化学などのトップ級の研究者を総動員して、研究を進めている。
柳沢教授が睡眠研究に取り組み始めたのは、1998年に睡眠と覚醒を制御する神経伝達物質「オレキシン」を発見したことがきっかけだが、発見は偶然からだったという。
「もともとオレキシンは食欲、つまり摂食行動を制御する物質だと考えていたのですが、オレキシンをつくる神経細胞は脳の中で〝本能〞を担う視床下部に存在していたため、摂食行動以外にも重要な仕事を担っているのではないかと――」
柳沢教授は、オレキシンをつくる遺伝子を破壊したマウスを観察。そのマウスの睡眠と覚醒に障害があることを突き止めた。
「人間にも、覚醒を正しく維持できない『ナルコレプシー』という病気があり、それと同じ症状でした。これによって、オレキシンが脳内での睡眠と覚醒の制御を担っている物質だと判明したのです」
睡眠の制御遺伝子を世界で初めて特定
約25名の研究者が所属する柳沢教授の研究室では、主に2つの柱から睡眠研究を行っている。一つは、特効薬が存在しないナルコレプシーの治療薬開発である。そうした背景もあり、研究室に所属する学生は卒業後、製薬の道に進むケースが少なくないという。
「日本のナルコレプシー患者は約10万人。強い眠気や突発的な脱力などによる事故を防ぐための治療薬の登場が望まれていましたが、当初、製薬企業に協力要請したところ、患者数が少ないという理由でどこも取り合ってくれませんでした。ならば大学発の創薬をやろうと研究を始め、2年ほど前にプロトタイプの合成にこぎ着けた。近い将来、臨床治験に持っていける化合物をつくりたい」
もう一つの柱は、遺伝性の形質からその原因遺伝子を探索する「フォワード・ジェネティクス」研究である。
「オレキシンの発見により、睡眠の謎が一挙に解けると期待したのですが、眠気(睡眠圧)が脳内でどう表現されているのか、睡眠量はどう調節されているのかといったことはわからず、謎は深まるばかりでした。そこで、これらを規定している遺伝子を直接探っていこうと」
柳沢教授は、数千匹のマウスから睡眠に異常があるマウスを見つけ、睡眠の根本にかかわる遺伝子を探索する試みをスタート(詳細はコラム参照)。昨年、睡眠覚醒制御において中心的な役割を果たす遺伝子を世界で初めて見いだすことに成功した。
「人間にも同じ遺伝子があるため、今後、この成果を突破口として研究を深めることで、睡眠覚醒ネットワークの全容解明が進むだけでなく、睡眠障害の解決に寄与できるのではないかと期待しています」
現在、睡眠障害に伴う日本の経済損失は3兆円を超えるといわれ、解決によってもたらされる効果は大きいが、柳沢教授は「社会還元も重要ですが、新しいことを発見する喜びや、『なぜ眠るのか』という謎解きの魅力が最大のモチベーションになっています」と話す。
そんな柳沢教授の座右の銘は、自ら創作した「真実は仮説より奇なり」という言葉だ。
「摂食行動にかかわる物質だと考えていたオレキシンが睡眠に関与していたことは、まさに『真実は仮説より奇なり』を象徴するケース。昨今、発表される論文にはデータを恣意的にとらえた〝仮説ありき〞の内容が多く、科学者の一人として危惧を抱いています。仮説を立てることは重要ですが、自分の仮説よりも目の前のデータこそが至上のものなのです」
柳沢 正史
教授 博士(医学)
やなぎさわ・まさし/1988年、筑波大学大学院基礎医学系博士課程修了。91年、米テキサス大学サウスウェスタン医学センター准教授兼ハワード・ヒューズ医学研究所准研究員。2003年、米国科学アカデミー会員選出。10年、内閣府の最先端研究開発支援(FIRST)プログラムの中心研究者。12年、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長就任。16年、紫綬褒章を受章。
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