科学の進歩がもたらす成果だけにとらわれてはいけない。
それを生み出した根源であるウィズダム=叡知に注目しよう
横浜薬科大学学長/
一般財団法人 茨城県科学技術振興財団理事長
博士(理学)
江崎 玲於奈
「物理学を究めたい」。行く道を定めたのは高校生の時
「大きくなったら何になりたい?」。今も昔も変わらぬこの大人の問いに、「エジソンのような人」と快活に答えていた。江崎が小学2年の頃の話だ。『エジソン伝』という絵本を読んで、画期的なものを次々と発明するエジソンのすごさに、魅了されたという。
ちょうどその頃、両親が手回しの蓄音機を買ってきましてね、それはもう驚きでした。子供だった私には、あたかも木のボックスの中にいる小人楽団が演奏しているかのように思えた。好きな時に好きな曲を聴けるというのは、革命といえる出来事。父からこの蓄音機もエジソンの発明だと聞いて、深く感動したことをはっきり覚えています。私は大阪府生まれですが、親が孟母三遷の教えに従ったのか、子供たちへの教育環境を配慮して京都に居を移していました。実際、勉強は楽しく、成績も良かったけれど、12歳の時、私は京都府立第一中学校の受験に失敗するという、人生初の挫折を経験しました。約300人の応募者に対して200人は入れる入学試験で、落ちるなんて夢にも思っていなかった。非常に細かった体が、健康優良児を求める軍国時代の身体検査に合わなかったのか、当時出ていた吃音が不利に働いたのか……いずれにしても大変なショックでした。結局〝浪人組〞として高等小学校に通い、その翌年に再受験をして入ったのが同志社中学です。
実はこの進路が、後の私に大きな影響を与えることになります。同志社の創立者である新島襄の先駆スピリットを学び、キリスト教色の強いアメリカ文化に出合ったことは、やはり刺激が大きい。私はキリスト教徒にはなりませんでしたが、早い時期に異文化と接する機会を得たことは、何事もグローバルな視点で考える下地を与えてくれたと思います。
その後、難関を突破して旧制第三高等学校(現京都大学の一部)に入学。西欧のリベラルアーツ教育を規範とする名門校で、戦時下ながら、江崎は自由かつ存分に学んだ。この時代に、「大自然を支配する法則は何か」を問う物理学に興味を持ち、サイエンスの研究を志すようになった江崎は、東京帝国大学理学部へと歩を進める。
軍国・日本の息苦しさのなかで育ってきましたからね。感情ではなく理性を、主観ではなく客観を重んじる科学に惹かれたのは自然な話かもしれません。なかでも大宇宙から微細な物質まで探究する物理学は、人間の可能性を限りなく拡大してくれる知識を生み出してきた。自然科学の基礎をなす物理学こそが最も価値あるものに思えて、この学問を究めよう――そう心に決めたのです。
45年3月9日、大学1年生の時、米軍の夜間大空襲により、赤門近くの下宿から焼け出されました。焼夷弾攻撃で東京下町は全滅、未曾有の被害を受けたのです。しかし翌朝8時、いつもどおり25番教室で田中務教授は〝物理実験第一〞の講義を粛々と行われた。私は必死になってノートを取り、前夜の惨事から離れ、物理学の世界に没頭しました。「何があっても学ぶことに最大の価値をおけ」と教わったのです。私がのちにノーベル賞受賞に値する研究成果を挙げられたのは、この教えに従ったからかもしれません。
最悪の記憶を伴う戦争の日々が終わり、私は、革新を目指して進歩を続ける物理学にますます引き込まれていきました。とりわけ傾倒したのは量子力学。「物質だけでなく、エネルギーもまた粒子状になっている」ことを発見したのはドイツの理論物理学者マックス・プランクですが、発表された量子論は、20世紀物理学のすべての研究の基礎となったわけです。古典力学を超える量子力学の革新的な知識は、我々学生に強烈な刺激と感動を与えてくれました。
ただ、日本においては戦時中に学問の空白があって、量子力学を知る研究員のいる企業はほとんどありませんでした。なので、私は企業に入り、「自分が知る量子力学を持ち込んで活用しよう」と考えるようになったのです。
私は「東京帝国大学」という名称が最後となった47年に卒業しましたが、国民主権を謳った新憲法が施行されたのもこの年。日本が勝ち取ったのではなく〝与えられた民主主義〞ではあるけれど、軍国主義の時代が終わったことは確かです。民主主義では、自分の将来を運命でなく、自分で自由に決められる。そう考えた私は、人生のシナリオは自分で描くと決めました。企業に入って量子力学を活用したデバイス(装置)を考え出そう、そして荒廃した日本の産業復興に貢献する、という筋書きだったのです。
※本文中敬称略
新分野での研究に挑み、エサキダイオード発見。世界の舞台へ
就職したのは、兵庫県にある中堅エレクトロニクス会社・川西機械製作所(後の神戸工業)。江崎はここで「真空管の研究者」としてスタートを切った。他方、江崎が入社したこの47年は、米・ベル研究所で真空管に代わる世紀の大発明、半導体トランジスタが誕生した年でもある。当時、早くにその価値を理解した江崎は、自ら積極的に半導体研究に取りかかるようになる。
半導体トランジスタが誕生したというブレイクスルーから学んだのは、真空管をどんなに研究、改良しても、質的に異なるトランジスタは生まれてこないということ。私は真空管研究を止め、ゲルマニウムやシリコンといった工業技術と接点の強い半導体物理学の研究に取り組み始めました。50年代初頭の話ですから、文字どおり未踏の分野。新分野を開拓すれば、二流の研究者でも一流の成果を挙げるチャンスがあると考えたのです。実際、国内でいち早く半導体実験に乗り出したことが、後のエサキダイオードの発見につながったと思いますね。
研究開発に全力を注ぎ、自社製トランジスタを使ったラジオの試作品を公開したりもしました。しかし、神戸工業は旧弊が災いして次第に経営難に陥り、研究費もカットされるようになった。このままでは研究者として成長できないと危機感を抱いていた頃、知人を介して縁を得たのが東京通信工業、現在のソニーです。活気に満ちたベンチャー企業という印象で、何より当時、半導体技術にとても優れていた。私が興味を持っていたのは半導体素子で「pn接合」における「量子力学的トンネル効果」の観測。これを徹底的に研究できる環境が得られると思った私は、31歳の時、転職を決意したのです。
新しい研究環境の下、江崎は計画どおりpn接合に関する研究に取り組んだ。目標にしていた電子障壁を透過して流れる「トンネル電流」を観測することに成功したのは、ソニーに移籍した翌年、57年のこと。そして、その先に思いもかけず現れたチャンス(幸運)が、エサキダイオードの発見であった。
トンネル電流を観測するために独自に採った方法は、pn接合幅、つまり障壁幅を薄くしていくこと。そうすると予想どおり、逆方向の耐電圧はどんどん低下する。トンネル電流を観測できたと確信したのは、試行錯誤の末、障壁幅を20nm程度まで薄くした時で、これがすなわち、逆方向ダイオードが生まれた瞬間でもあります。
さらに、10nmという薄さの限界に挑戦すると、そこには大きなサプライズが待っていた。電圧を大きくすると、逆に電流が減少するという負性抵抗を持つダイオードが現れたのです。これこそがエサキダイオードの発見で、悪戦苦闘の後だけに、心震える感動を得たのは言うまでもありません。
「宇宙に存在するものすべて、偶然か必然が生んだ果実である」。古代ギリシャきっての自然哲学者・デモクリトスの言葉です。この論に当てはめれば、私がやろうとしたトンネル電流の観測は〝必然〞、エサキダイオードの発見は〝偶然〞。このチャンスが後のノーベル賞受賞に結びついたわけですが、基礎研究の面白さ、醍醐味は、こういったチャンスが様々革新的なものを世に生み出していくことにあります。
エサキダイオードの研究成果は、すぐに日本物理学会で発表したものの、当初は多くの人に意義を理解してもらえなかったんですよ。非常に高く評価してくれたのは、先のトランジスタを発明したベル研究所のグループで、なかでもノーベル物理学賞受賞者のウィリアム・ショックレー博士は、私の仕事を絶賛してくださった。なので、エサキダイオードは最初アメリカで有名になったのです。招聘されるかたちでアメリカ各地の研究所を訪れ、依頼された講演なども行うなか、様々な研究所から「うちで働かないか」という勧誘を受けるようになりました。日本で雑事に追われることが多くなった私は、純粋に研究を続けるには、場をアメリカへ移したほうがいい、そう考えるようになったのです。日本の踏みならされた道を離れ、自分の力を試してみたい――武者修行に出ようと。
※本文中敬称略
32年間のアメリカ研究生活を経て、教育者に転身
江崎が渡米したのは60年、35歳の時だ。研究に集中できる環境を求めて移籍した先は、ニューヨーク市郊外にあるIBMのT・J・ワトソン中央研究所。当時、新設されたばかりの研究所で「ここなら自主自律の研究ができる」と思えたことが、その選択理由だ。この頃、江崎はエサキダイオードの研究からは離れ、アメリカでしか叶わないスケールの大きな研究、半導体の新天地を開拓したいと考えていたのである。
日本とアメリカの研究環境はまったく違います。最大の違いは、アメリカの評価は、先入観にとらわれずフェアになされる点で、実際、どこの国の研究者であっても、優れた仕事をする人間が残って活躍することができる。IBM研究所で私がフェロー(特別研究員)に任命された際、当時の社長から「何でも、あなたが価値あると思う研究を自由にやってください」という言葉をいただいた時は、私に対する評価を大変うれしく思ったものです。
これを機に、私は長く温めてきた課題に取り組むことにしました。自然の物質には見られない特性を備えた「人工超格子」の研究です。人工的につくる結晶構造で、この自然を超える物質を作成するという野心的な試みは、独自の課題への挑戦でした。研究者としての私は、常にゴーイング・マイウェイ。リスクが高くても〝未知〞を求める路線が性に合っているんですよ。
このプロジェクトは、理論から実践に至るまで相当な研究資金と時間を要しました。しかし、私と研究協力者らによる超格子や共鳴トンネル効果の研究は、ナノサイエンスやナノテクノロジーの嚆矢とされ、この学際分野の推進に貢献しましたし、技術革新をもたらす契機にもなりました。超格子は、アメリカ滞在中に私が全力を投じた研究課題で、その波及効果は、エサキダイオードをはるかに超えるものだと思っています。もっとも、評価されるまでには長い時間がかかりましたけどね。
江崎は、この超格子の作成に没頭している最中の73年に、ニューヨークの自宅でノーベル物理学賞受賞の報を受けたそうだ。アメリカでの研究生活は長く32年間に及んだが、帰国することになったのは、日本人学生に対する教育への意欲に燃え、筑波大学の学長に就任したからである。離れ難くなっていたアメリカの地を後にしたのは、67歳の時だった。
私の人生には大きな変革が3つあって、最初は日本の敗戦。次が研究環境をアメリカに移した時。そして3番目が、研究者から教育者へと〝職種〞が変わったこと。やはり研究は、創造性豊かな若い人がするべきで、アメリカの大学からも「学長に」という話があったものですから、私はもう研究職をリタイアしようと思っていたのです。
筑波大学学長選挙への出馬要請を受けたのは90年頃でしょうか。新構想大学として創設されたものの、地盤沈下して発展が足踏みしていることへの危機感を抱いていた同大学の村上和雄、南日康夫両教授から熱のこもったお誘いを受けたのです。同調する若手研究者たちからも。その真摯な要請に応え、私も一緒になって筑波大学の発展を図ろうと決めて、受けたお話でした。そういう経緯なので、私が注力したのは大学改革と学生の士気を鼓舞すること。その一つが学園祭で実施した「レオナ・プロジェクト」で、これは「良い授業をした教官」と「フレンドリーな教官」について学生投票を行い、選ばれた教官たちには表彰と、学長裁量経費から研究費を配分するもので、人気がありました。また、産官学が協力して研究を進めるため、TARA(現生命領域学際研究センター)を発足させたこと、これについては国立大学の在り方を一つ示せたと思っています。
続いて茨城県科学技術振興財団の理事長に就任し、2000年には国の教育改革国民会議の座長を務め、社会的な活動にも携わってきました。この会議でも取り上げましたが、私が一貫して問題視しているのは、日本の画一的な教育です。アメリカの教育文化は日本とかなり違うでしょう。顕著なものとして、日本はできない生徒に対して「勉強しろ」と叱咤激励するけれど、アメリカはできる生徒をもっと伸ばそうとする。一口に言えば、英才教育のようなものが日本には乏しい。多様性のある豊かな個の時代を実現するには、足並みがそろった知識や能力を育てるより、個性を尊重する教育が重要になってくる。持って生まれた才能を自由に伸ばすことこそ、教育の使命だと考えるべき時代ではないでしょうか。
※本文中敬称略
限りない科学の進歩に向けて――未来を担う人材育成に力を注ぐ
その後、芝浦工業大学学長を経て、06年に横浜薬科大学学長に就任。薬科教育6年制が始まったこの年に開学された大学で、要請を受けた江崎は、〝畑違い〞ながら、また新しい一歩を踏み出したのである。
薬学は私の専門ではないですが、21世紀は生命科学の時代、薬学の重要性は言うまでもありません。私自身、こうして92歳まで生きていられるのは、親身に世話をしてくれる家内の存在とバイオメディカル・エンジニアリングの著しい進歩があるから。ご存じのように超高齢社会となって、バイオメディカルなベネフィットを求める人たちは急速に増えているのです。
元来、学者というものはユニバーサリスト(博識者)を自任し、総合的な知識を体得していましたが、学問がどんどん発展して、一人が一つ以上の専門領域を習得することが難しくなったわけです。ほかの専門分野には顔を出さないという〝掟〞のようなものもできた。ところが、この掟を破ったのが量子力学を築いたアーウィン・シュレーディンガー。物理学者ながら20世紀半ばに生命体の研究を始め、物理・化学的な手法を駆使して生命の本質を追究したのです。彼の努力は生物学に論理性を与え、分子レベルで生命体を理解するという新たな学際領域を誕生させた。ここから、世紀の発見と称されるDNAの二重らせん構造が解明され、医療が格段に進歩していったのです。
薬学は専門ではないと言いましたが、先人を見れば、物理学はすべてのサイエンスの基礎であることがわかります。私自身に直接関係する話でもありますし、この先鋭的な分野でも挑戦しながら、新しい役割を果たしていければと思っています。
学長告辞などの折に、江崎が必ず話していることがある。ここにその要約を記す。「人生とは、あなたが主役を演じるドラマである。そして、そのシナリオが問われることになる。かつて人の〝運命〞は生まれた家柄などにより、どのような地位に立って、社会で働くかが定められていた。しかし、各自の将来は〝運命〞ではなく、各人の〝オプション(自由な選択)〞で決められるのが民主主義の原則。人生の戦略となるシナリオは自分自身で書き下ろさねばならない。あなたが学校教育を受ける最大の目的は、競争社会においてそのタレントを最大限に発揮し、充実した人生を送ること、そのシナリオを創作する能力を身につけることである」。
今年の7月17日、海の日でした。何気なくテレビを見ていたら、何と昔の私の姿が出てきた。「もう一度見たい名講義」という放送大学の番組で、私の講義もそれに選ばれていたのです。題目は「科学が我々に与えるもの」。86年に行った講義で、当時の肩書は米国IBM主任研究員でした。科学技術の進歩は目覚ましく素晴らしい成果を生んでいます。しかし、31年前、私はそれには触れていません。多くの人たちは、科学の進歩が与える物質的な所産、成果ばかりに目を向けがちですが、大事なのはそれを生み出した精神的な所産。言うならば、科学するスピリットの中にある研究者の未知を探究する鋭い洞察力と、豊かな創造力を備えたウィズダム=叡知であると思うのです。
自分が主役を演じる人生のドラマのシナリオは、自分が書き下ろす必要があります。シナリオを創作するに際しては、自身の天性を見いだし、潜在能力を探り出さなければなりません。我々は独自の遺伝子情報を持ち、自分だけの特徴ある容姿や素質を備えています。何を得意とするか、面白いとするか、何に心が感動するか。持って生まれたタレントを詳しく探索することは重要です。自分の天性が鮮明に見え、自己の再発見ができれば、未来に広がるシナリオを書くことはできます。
私自身、決して特別な才能を持って生まれたわけではありません。ノーベル賞級の成果を挙げることができたのは、独創的なシナリオを作成し、それを企業において実施したからです。通常、管理の厳しい企業において自分独自のシナリオを実行するのは容易ではありません。私も最初に就職した神戸工業では8年8カ月勤めましたが、遂に喧嘩別れとなり、退職金も支給されませんでした。ですが、東京通信工業に籍を移した1年後には、私のシナリオどおり、エサキダイオードの誕生を見るのです。もちろん時には、シナリオにはない演出を求められたり、失敗や挫折を味わったりもしました。それでもリスクを恐れず、自分の能力を精一杯振り絞って、未来を切り拓いてきた先に今日があると思っているんですよ。
※本文中敬称略
Profile
横浜薬科大学学長/一般財団法人 茨城県科学技術振興財団理事長 博士(理学)
江崎 玲於奈
1925年3月12日 | 大阪府東大阪市生まれ |
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1947年 | 東京大学理学部 物理学科卒業 株式会社川西機械製作所(後の神戸工業株式会社)入社 |
1956年 | 東京通信工業株式会社(現ソニー株式会社)入社 |
1960年 | 米国IBM T. J. ワトソン研究所入所 |
1967年 | IBM Fellow |
1976年 | 日本IBM非常勤取締役 兼務 |
1992年 | 筑波大学学長 |
1998年 | 茨城県科学技術振興財団理事長(現任) |
2000年 | 芝浦工業大学学長 |
2006年 | 横浜薬科大学学長(現任) |
主な受賞・受章
日本学士院賞(1965年)、
ノーベル物理学賞(1973年)、
文化勲章(1974年)、
米国物理学会国際賞(1985年)、
米国IEEE協会最高栄誉メダル(1991年)、
日本国際賞(1998年)、
勲一等旭日大綬章(1998年)
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