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【研究者の肖像Vol13】研究者人生は「自分のもの」。チャレンジを重ね、力を最大限発揮できるような面白いテーマを見つけてほしい 飯島 澄男

研究者人生は「自分のもの」。チャレンジを重ね、
力を最大限発揮できるような面白いテーマを見つけてほしい
名城大学大学院理工学研究科 終身教授
博士(理学)
飯島澄男

1991年、世界で初めてCNT(カーボンナノチューブ)を発見した飯島澄男は、ノーベル賞候補者としても知られ、世界にその名を馳せる。大学院時代から始めた電子顕微鏡の研究で、物質構造を原子レベルで解明する高分解能技術を世界に先駆けて開発。以来、「原子の姿を見る」ことに魅せられ、いくつもの発見を携えてナノサイエンスの領域を先導してきた。「単独でも山に分け入る狩猟型」と称されるように、独立心の強い飯島は、国内外の大学、民間企業、またJST(科学技術振興機構)や産業技術総合研究所など、数々〝足場〞を変えながら独創性ある研究に挑んできた。その行動力と飽くなき好奇心が、今も変わらぬエキルギーである。

好奇心旺盛な少年。様々な経験のなかから行く道を割り出す

山登り、オーケストラ仲間との演奏、フライフィッシングなど、今も多くの趣味を楽しむ飯島は、子供の頃から好奇心にあふれていた。「知りたい」「やってみたい」は尽きなかったそうで、なかでも熱中したのは昆虫採集、模型飛行機やラジオなどの組み立てだった。

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本取材は、2018年2月7日、名城大学の
飯島氏の執務室および実験室で行われた。
飯島氏は、1999年から同大学教授、
2010年からは終身教授を務めている

戦後のどさくさ期に育った我々世代は皆そうでしょうが、整っていない環境のなかで、遊んだり学んだりする機会は自分たちでつくってきたんです。例えば模型飛行機をつくるにしても、設計図やプラスチック部品なんてないから、材料からつくらなきゃいけない。指を切ったりしながらね(笑)。で、飛行機がうまく飛ばなかったりすると、「どうして?」を考え、何回もチャレンジする。そのプロセスが楽しいわけですよ。いわば体験学習のようなもので、そういう「実際にやってみた」ことのなかから、自分の興味・関心を引っぱり出してきたような気がします。

私は埼玉県越谷市で生まれ育ったのですが、昔から独立心が強かったのか、都立高校に行きたくて、中学の段階から東京都内の学校に越境通学していたんです。それから進学したのが都立上野高校で、当時、クラス50人のうち40人くらいが理系という環境でした。結果的には自分に合っていたし、授業を通じて化学の面白さを教えてくれた先生との出会いもあり、後の進路については影響を受けています。興味の対象は、一貫して自然現象にありました。逆にいえば、例えば文学のように人がつくるもの、人間を相手にするものには興味がなかったのです。だから理系ではあったけれど、漠然と持っていた夢の一つ、医者には向いていないだろうと。私の場合は、初めから「科学者になる」という強い思いがあったわけじゃなく、いろんな選択肢を自分に照らし合わせながら、そして取捨しながら、この道に入ったという感じですね。

国立大学狙いのなか、電気通信大学は第2志望先だった。もとより、この段階では具体的な将来像を持っておらず、飯島は「大学4年間でやりたいことを見つければ、それでよし」と考えていた。入学後に熱中したのは山岳部とオーケストラ部での活動で、「忙しくて勉強する時間なんてなかった(笑)」。道が定まるのは、まだ少し先である。

私がやっていたのはハードな山登り。重くてでっかい荷物を背負って登るバンカラなやつ。数々厳しい山に挑戦し、北アルプスでもよく合宿したものです。我々の時代は、軍隊みたいに号令を掛け合って進むグループ登山が主流だったんですよ。苦しいのになぜ登るのかといえば、頂上に立った時の達成感だけでなく、「ここを登った先に何があるのか」という好奇心がエネルギーになっていたのだと思う。

後も含めて、私は恩師と呼べる素晴らしい先生方に出会うのですが、その1番目が、大学4年の時に研究室で指導してもらった化学理論の井早康正先生です。私は唯一の卒研生だったからマンツーマン。理論なので、正直、やっていることはあまり理解できなかったけれど、先生は人格者のうえに面白く、何より自由にさせてくださった。我が人生をどうするか、まだいろいろと迷っていたなか、大学院に行って研究者の道を歩もうと考えたのは、この井早先生の存在が大きいです。

4年生最後の夏山が終わったあたりから受験勉強を始め、進学した先が東北大学大学院の理学研究科物理学科です。遅い時期からの準備でも募集に間に合ったこと、中学からずっと同じルートを歩んできた友達が一足先に行っていたこと、それが東北大を選んだ理由です。だから〝たまたま〞という話(笑)。自分には物理学が合うだろうと思ってはいましたが、ちゃんとした具体像を持っていたわけではないのです。

※本文中敬称略

電子顕微鏡研究に魅せられる。その後の人生を貫く専門に

わからないもので、この「たまたま進学した」東北大学大学院で、飯島は「自分にぴったり」の研究テーマに遭遇したのである。入り口は、電子顕微鏡の権威・日比忠俊教授の研究室に配属されたこと。聞けば、これも偶然だったというが、「電子顕微鏡の世界に魅せられた」飯島は、ここから一直線。研究に没頭する日々が始まった。

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1970年、アリゾナ州立大学固体科学研究センターの
ポスドクに就任。写真は1975年発行の
『Physics Today』に掲載された記事より。
恩師・ジョン・カウリー教授と電子顕微鏡の前で

東北大の学部から上がってきた人たちは、どこの研究室に行くか、概ね決まっているわけですが、私のように外部から来た学生は〝振り分け〞されたんですよ。その先が日比先生の研究室だった。それまで電子顕微鏡なんて触れたこともなかったけれど、細かいものを見る、手先の器用さが生きるなど、自分にぴったり合うと確信しました。ようやく〝これ〞という好きなことを見つけたのです。

この60年代後半は「高分解能の電子顕微鏡」という新しい流れが台頭し、日本の技術が高まりを見せ始めていた時期でした。それまで「安かろう、悪かろう」だった日本の電子顕微鏡が逆転現象を起こし、トップを走っていたドイツやオランダと大きな開発競争を繰り広げるようになっていた。材料の特性を調べるのに電子顕微鏡が盛んに使われるようになり、すべてが右肩上がりにあるフェーズに居合わせることができたのです。活気にあふれた研究領域は、刺激的で本当に面白かった。日比先生の下では、メーカーとの協力体制で電子顕微鏡の新しいタイプの装置をつくったり、その装置を使って金属原子を観察したりといった研究をしていました。研究室では、この時点ですでに、非常に分解能の高い写真を撮れるようになっていましたから、世界トップにあったといっていいと思います。第2の恩師である日比先生の口癖は「人のやっていることは真似するな」。そこから外れると「それは銅鉄研究だ」と叱られたものです。つまりは「銅でこうだったから、次は鉄でやってみよう」的なつまらない研究パターンは研究に非ずと。常に独創的であれという私のポリシーは、この時代にたたき込まれたのでしょう。

博士過程修了後、飯島は東北大学科学計測研究所で助手を務め、70年にポスドクとして米・アリゾナ州立大学に赴任。同大学に設立された電子顕微鏡研究センターで、やはり世界的権威であるジョン・カウリー教授と共に、「電子顕微鏡で原子を見る」ことに全力を注いだ。「電子顕微鏡を使った物質のナノレベルの構造や物理現象の探究」をテーマにしたが、これが、飯島のその後の人生を貫く専門となった。

アリゾナ大学に行ったのも半ば偶然なんです。アメリカから「誰か人を送ってくれ」と招聘がかかった時、本来なら適任者であった助教授が、ちょうどシカゴ大学から戻ったばかりだったので、またすぐにというわけにもいかず、私にお鉢が回ってきたのです。つくづく幸運というか、振り返ると、私は本当にいい機会に恵まれてきました。アリゾナでは、日比先生が考案されたポイントフィラメントの技術が威力を発揮しました。東北大学での経験を生かして観察技術を磨き続け、物質構造を原子レベルで解明する高分解能電子顕微鏡技術を世界に先駆けて開発することができた。結晶中の金属原子の直接観察に成功したのが71年、追って73年には、結晶中の点欠陥を原子レベルの分解能で撮影することに成功しました。これらは、シリコンなど半導体電子デバイス開発に欠かせない基盤技術として現在に至っています。私のCNT発見は広く知られているけれど、こうした仕事についてはあまり知られておらず……ささやかな不満(笑)。
業績は認められるし、世界トップの環境には情報も人もどんどん集まってくるから居心地がよく、結局12年間の滞在となりました。ジョン・カウリー先生もまた素晴らしく、神様のような人。学生には熱心に指導していましたが、ポスドクは〝一人前の研究者〞として扱ってくださった。私が先生との連名で論文を書いたのはわずか3つ、4つですから。尊重の下に、本当に自由に研究をさせてくれました。

アリゾナ生活を打ち切って帰国した一番の理由は、子供のため。これ以上長くアメリカで過ごすと、もはや日本が母国ではなくなってしまうと思い、親の責任として引き上げることにしたのです。それと、次第に電子顕微鏡周辺の活動がフラットになり、伸びしろが見えなくなってきたこともあった。ほかに走査型トンネル顕微鏡が出てきましたし、面白そうなテーマがそろそろなくなってきたと感じていたのです。

※本文中敬称略

〝研究の現場〞を重ねて開かれた心眼。CNTの発見へ

日本の新しい基礎研究プロジェクトから参画要請を受けたのも帰国理由の一つだ。81年から始まった新技術開発事業団(現科学技術振興機構・JST)の第1号ERATOで、飯島は「林超微粒子プロジェクト」に参画。名城大学を研究拠点に、特殊で新しい電子顕微鏡の開発や、それを駆使した超微粒子の生成や物性を調べる研究に携わった。ここで飯島は、金の超微粒子がアメーバのように動く「構造ゆらぎ」を発見し、仁科記念賞を受賞している。

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ERATOプロジェクトで経験した5年間の超微粒子研究が、後のCNT発見に大いに関連しています。プロジェクトの目的の一つは、アーク放電法による「鉄」超微粒子の大量生産で、これを磁気テープに応用しようというもの。80年代は酸化物磁性体から金属磁性体への転換期で、産業界も超微粒子に注目し始めた時代です。今でいうナノクリスタルで、ナノ材料の〝はしり〞に携わっていたわけです。

ここで開発したアーク放電法が、90年に発表されたフラーレンの大量生成法と同じであることがわかったんですけど、それからというもの、世はフラーレン・フィーバー。超微粒子生成にかかわる研究者たちがこぞってフラーレンの大量生産を開始し、名城大学では理工学部の安藤義則先生たちが取り組んでいらした。炭素棒を放電電極にして煤を大量に生成し、そこからフラーレンを抽出するわけですが、ここで使い古した炭素棒電極の先端に「CNTがあった」のです。
この時の私の職場はNEC基礎研究所で、つくば市にいたんですよ。家族を名古屋に残していたものだから、週末の帰宅に合わせて、名城大学で物理実験の非常勤講師をしていたのです。その機会があったから、安藤先生の研究室から炭素棒をいただくことができ、それをNECでつくった電子顕微鏡で調べているうちに、CNTが偶然見つかったというわけです。

「どのようにしてCNTを発見できたのか?」――幾度も重ねられてきたこの問いに、飯島は、思いもよらない発見という意味で「セレンディピティ(偶然の幸運)」という言葉を使う。科学の偉大な発見の多くには、偶然に見つかったというエピソードがあるが、CNTもその一つであると。だがいうまでもなく、その偶然に至る背景には〝研究の現場〞があるということだ。

ナノメートルサイズのCNTを調べるには電子顕微鏡が必須です。だから当然、電子顕微鏡に従事する者以外にはCNTを発見する機会は皆無です。加えて、私には発見以前までに20年の電子顕微鏡による研究歴があった。発見の条件を満たしていたんですよ。この年月に行ったほとんどの研究は、CNTと無縁でなかったように思います。例えば大学院時代に、私は電子顕微鏡観察からフィラメント状の銀結晶「ウイスカー」を発見しましたが、20年後にCNTに遭遇した時、この銀ウイスカーがぱっと蘇って、その結晶構造を短時間で解明することができたのです。

ほかにこんな背景もあります。サッカーボール状の炭素分子・フラーレンC60は85年に発見され、発見者の3人は後にノーベル化学賞を受賞しましたが、発表当初、彼らの論文は受け入れられなかったんですね。分子構造を直接説明する実験データが欠落していて、証明が不十分だったわけです。ここで、私が80年に発表していた高分解能電子顕微鏡写真が関係してきます。「タマネギ状」グラファイトの像で、この中心円の形がC60に酷似していたことから、これが、推定されたフラーレン分子構造に対する唯一の証拠になったのです。途中、発見者の一人であるハロルド・クロトーが筑波まで来たこともあり、一連のご縁から親しくしていました。90年に開かれた米国材料学会でクロトーに会った時、「君もフラーレンをやれよ」と勧められまして。ただ、私としては単純な後追いはつまらないから、まずはいろんなカーボンを見てみようと。先述の安藤先生のところから入手した「使い古しの炭素棒」はその一つでした。CNTを発見したのは、クロトーに研究を勧められた数カ月後。すべてはつながっているのです。やはりパスツールの言葉のように、「幸運の女神は準備している者にしか微笑まない」ということなのでしょう。

※本文中敬称略

日本の得意分野であるナノサイエンスの発展に尽力する日々

ダイヤモンド並みの強度に加え、高い導電性や熱伝導性を持つCNTは「夢の新素材」と呼ばれる。国内外、あらゆる産業分野から注目されているのは周知のとおりだ。2001年から15年間、飯島は産総研のナノチューブ応用研究センター長を務め、今春は名城大学が新設した「ナノマテリアル研究センター」の名誉センター長に就任。CNTの本格的な産業応用に向けても、日々、精力を注いでいる。

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論文の引用状況を調べるグーグル・スカラーで検索すると、CNT発見の論文のサイテーション数は、つい最近で4万6000ぐらい。試料作製方法やソフトウエアに関するものではなく、純粋に発見を報告している論文としてはケタ違いに高い数字で、4年前と比べても倍増しています。何も自慢しているわけじゃなく(笑)、これは27年経った現在でも、まだ多くの研究者がこの論文を参照し、研究が進んでいることを意味しています。基礎科学は文化のバロメーターだといわれますが、その裾野拡大に貢献できているとすれば、うれしいですね。

現在の技術では、CNTの直径や結晶構造がバラバラになるなどの難しさがあって、実用化において決定的なものはまだありません。でも、もう間もなくだと思う。そんなに高品質が問われない用途として、リチウム電池への応用は急増していますけど、半導体や医薬品など幅広い分野への応用が可能になる段階にきています。新しい材料はオープンにしたほうがいい、というのが私の考えで、世界中の大学や企業の研究者たちに用途を考えてもらって、早期実用化できればいいと。

ナノマテリアル研究センターでは、直径や結晶構造がそろったCNTの生成が、当面目指すテーマになります。そして、炭素や金属原子などが平面上に結合した「ナノシート」や、ナノ粒子の研究開発も進めていくことになります。CNTは名城大学にあった試料から発見したものですからね、ナノテク材料の開発を牽引するべく、私も尽力せねばと思っているところです。

同センターだけでなく、様々な学会や大学で栄職に就く飯島の日々は多忙である。国内外問わず、講演などに呼ばれるのも茶飯事だ。それでも合間を縫って趣味を楽しみ、好きな旅行ともなればリュックを背負ってどこへでも出かける。飯島の好奇心、行動力の強さは、今なお変わっていない。

研究や実験は、CNT以外にもあれこれやっていますよ。これまでに〝取りこぼした〞テーマがいくつもあるから。例えば、鉱物がその一つ。電子線で壊れやすい鉱物は、電子顕微鏡で見るのが非常に難しくて、実際にどういう結晶構造になっているのか、その多くはきちんと解明されていません。長年にわたる私の興味対象で、最近、実験でそれが少し解けた手応えがあって、喜んでいるところ。実地踏査もするし、私はつくづく実験屋だと思いますね。

「動く」「やってみる」は、非常に大事だと思うのです。やっぱりチャレンジですよ。振り返れば、私は職場を何度も変えて、時には勝手が違う環境に戸惑ったりもしたけれど、常に心新たに、背水の陣でやってきたつもりです。だからこそ実のある経験を得られたし、その時々に恩師とも出会え、道を開くことができた。失敗を恐れずチャレンジして、ダメだと思ったら潔く引き上げ、また出直せばいいのです。研究者人生はその人のもの。自分の力を最大限発揮できるような面白いテーマを見つけなきゃつまらないじゃないですか。せっかく出てきた逸材が定位置に埋もれているのはもったいないし、人材を有効に使うという意味では大いなるロス。日本はそういう傾向が強いでしょう。自由に適材適所でやればもっと活性化するのに、と思いますね。

そう、一にも二にも人材。この国の資源は、もう〝頭〞しかないのだから、社会総がかりでサポートしていかないと。日本人のノーベル賞受賞者が23人という実績は、それまでの投資があってのことで、我々は持てるハンデで飯を食ってこられた。それが、近頃の中国や韓国の勢いを見てもわかるように、もはやハンデがなくなってきて、本当の意味での競争時代に入っています。ですから、科学技術全般に対して、長期的なビジョンに立った真剣なサポートをしていかないと、ちょっと大変なことになるという危機感がある。そういう発信も含めて、自分の役割を果たしていきたいと考える昨今です。

※本文中敬称略

Profile

biographies01名城大学大学院理工学研究科 終身教授 博士(理学)
飯島 澄男

1939年5月2日 埼玉県越谷市生まれ
1963年3月 電気通信大学 電気通信学部卒業
1968年3月 東北大学大学院 理学研究科物理学専攻 博士課程修了
   4月 東北大学科学計測研究所助手
1970年9月 米国アリゾナ州立大学 個体科学研究センター研究員
1979年4月 英国ケンブリッジ大学 客員研究員
1982年4月 新技術開発事業団(現科学技術振興機構)
創造科学技術推進事業 林超微粒子プロジェクト
基礎物性グループ グループリーダー
1987年2月 日本電気株式会社 特別主席研究員
1999年4月 名城大学教授
2001年4月 独立行政法人 産業技術総合研究所 ナノチューブ応用研究 センター長
2007年4月 名古屋大学高等研究院 特別招聘教授
2010年4月 名城大学終身教授
2015年4月 国立研究開発法人 産業技術総合研究所 名誉フェロー

主な受賞・受章

バートラム ワーレン賞(1976年)、
 仁科記念賞(1985年)、朝日賞(1997年)、
 つくば賞(1999年)、
 ベンジャミン・フランクリン・メダル・物理学賞(2002年)、
 恩賜賞・日本学士院賞(2002年)、藤原賞(2007年)、
 トムソン・ロイター引用栄誉賞(2007年)、
 アストゥリアス皇太子賞(2008年)、カブリ賞(2008年)、
 文化勲章(2009年)ほか多数

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