研究にしても事業にしても、自分でテーマを選び、
小さな挑戦を重ねながらやり抜いていく。これが一番大事
S&R財団 理事長兼CEO
Halcyon 創設者兼議長
博士(工学)
人とかかわるのが苦手で選んだ理系の道。大学院時代に開花する
膨大な資金と時間を要する創薬の成功確率は「3万分の1」ともいわれる。久能祐子は、それを2つも世に送り出した。生化学研究者から起業家に転じたのは30代半ばの頃。日米両国でそれぞれバイオベンチャー企業を立ち上げ、新薬の開発・製品化を導いてきた名うてのプロデューサーである。2015年には、米フォーブス誌の「自力で成功を収めた女性50人」に日本人として唯一選ばれた。現在は、主にインキュベーション事業に注力、意欲的な若い起業家や芸術家などを〝独自のシステム〞で支援している。常に自らつくり上げたステージに立つ久能は、まさにシリアルアントレプレナー。久能の人生は、連続的な新しいことへの挑戦によって刻まれている。
故郷は山口県下松市。父親は企業の研究所に勤めるエンジニア、母親は専業主婦という〝ごく普通〞の家庭に育った。ただ特徴的なのは、両親ともが非常に自由な考え方を持っていたこと。「男の子だから、女の子だから」という既成概念にとらわれず、「子供たちが望むことは何でもさせてくれた」。
教育にも労を惜しまず、きょうだい3人、本当に自由かつ平等に育ててもらいました。ですが、3人きょうだいの真ん中である私は、優等生で社交的な姉とわんぱくな弟に挟まれ、周りが心配するほどシャイな子供だったんですよ。一人でいることが多く、文学全集を読んだり、いろんなことを空想したり……。今にすれば意外に思われるかもしれませんが、とにかくコミュニケーションが苦手だったのです。
通った高校は、隣町にある県立の徳山高校。本来なら学区外なのですが、成績によっては限られた枠で採るというので受験したところ、驚いたことに1番の成績で入っちゃった。のちの大学にしても、どうも私には受験をする頃にいい周期が訪れるみたいで(笑)。ただ、勉強についてはコンプレックスがあったんですよ。私は、9教科全部を合わせるとけっこういいポジションを取るのですが、一芸に秀でていない。数学、物理など、一つひとつで見ると素晴らしい力を持つ人はいて、その力が自分にはないなぁと。でも、もっと先になってから、実はここに私の適性があったとわかるんですけどね。
2年生となって文理の選択をする際、理科系を選んだのは、相変わらず人とかかわるのが苦手だったから。人間が持つ感情に左右されず、バシッと数字で結果を出せる世界のほうが、私には合っていると感じていました。理科系に進んだ学生は約300人で、そのうち女子はわずか8人。思えば、この時から私の人生はマイノリティになったのかもしれません。
1973年、久能は京都大学工学部に進学。この選択も「実験さえしていれば人と話さずに済む」と思ってのことだ。当時、1学年に在籍する女子学生は6名、やはりマイノリティだった。しかし、京大との相性はよく、久能はその自由な校風によって〝解放〞され、研究者としての道筋も得たのである。
同級生や先輩、そして先生も変わった人が多くて。ちなみに、京大における褒め言葉って3つあるんですけど、評価の高い順にいうと奇人、変人、おもろいヤツ(笑)。そもそも人と比べることはしないし、大学側も〝教えを授ける〞というスタンスではないんですね。この緩やかさがいいエコシステムになっていて、内向的だった私を解放してくれたように思います。
バイオテクノロジーの分野に進もうと決めたのは大学院進学時です。タイミングとしてはバイオの黎明期。血を見るのがダメで、それまで生物系は避けてきたのですが、工学部でも生化学を使った研究が新しく始まり、これは面白そうだと。大学院ではバイオ研究の第一人者である福井三郎先生に師事することができ、ここでも私はチェンジにつながる好機に恵まれました。
ミュンヘン工科大学への留学です。ある日、実験室にふらりと現れた福井先生が「ちょっとドイツにでも行ってみる?」と声をかけてくださったのがきっかけ。期間としては1年強と短かったけれど、ターニングポイントになったのは確かです。当時は難しかった「女性が研究者として職に就く」が、ドイツでは普通であることを知り、実際、年齢を問わず、様々にやりたいことをやっている女性研究者たちと出会えたのは有意義でした。また、夏休みには、鉄道を乗り継ぎながら複数の大学で講演をし、好きなことでお金をいただくという初めての経験もしました。
あとから聞いたのですが、実はこれらのプログラムは福井先生のお膳立てだったんです。アカデミアに燃える私をロールモデルのいる環境に出してくれたわけ。そんなことは微塵も感じさせず……すごいでしょう。私は先生の手のひらに乗っていたという話(笑)。
※本文中敬称略
「プロストン」の発見により、創薬の道に踏み出す
「先が見えた」と、意気揚々と帰国した久能は、半年後に博士号を取得。しかし、女性博士の就職は極めて難しい時代で、大学に残ろうにもポジション自体がなかった。結果、三菱化成生命科学研究所(当時)に任期付きのポスドクとして入所、遺伝子操作の研究に携わった。そして、次に足場を移した先が新技術開発事業団(当時)で、久能はここで、後に公私にわたるパートナーとなる上野隆司博士と出会う。
福井先生のご紹介で、当時、大阪医科大学の学長だった早石修先生が率いる研究プロジェクトに参加しました。テーマとしては、中枢神経系の情報伝達を担う物質・プロスタグランジンの作用の解明です。そのなか、睡眠や学習、記憶といった脳内での分子メカニズムを研究していたのが上野のチームで、これはすごく面白かったですね。
研究過程で上野が突き止めたのは、プロスタグランジンD2に眠りを調節する働きがあること。さらにここからヒントを得て、プロスタグランジンD2が分解されてできる物質に、傷ついた細胞を修復・再生する作用があることを見つけたのです。これが、創薬のプラットフォームとなった「プロストン」。従前、こういった分解物質は不活性だとされていましたが、「絶対に何かある」と信じ、実験を重ねたことが世界初の発見につながったのです。
医師でもある上野と同じく、私もこの大発見を治療分野への応用につなげたいという思いが強かった。というのは、忘れがたい経験があるからです。時を同じくして、私は開発していたエイズワクチンの臨床試験を行うために、単身でアメリカに渡ったんです。FDA(米国食品医薬品局)やNIH(米国立衛生研究所)と交渉したり、大学病院では多くの医師や患者さんに協力してもらったり。データも良かったし、絶対にうまくいくと思っていたのですが、2年取り組んだ末の結果は「効かず」。この頃、エイズは不治の病で、患者さんたちは藁にもすがる思いで期待を寄せていたのに、応えられなかったことが本当に苦しかった。いくらアカデミアといっても、発明が患者さんや社会に届かなければ意味がない――そう強く思うようになった経験です。
基礎研究の世界ではすぐに創薬までつながらない。予算にも限りがある。長である早石氏に相談したところ、「それは素晴らしい話だが、外でやったほうがいい」とアドバイスを受け、89年、久能は上野氏と共に「アールテック・ウエノ」を設立。上野氏の父親が経営していた上野製薬(兵庫県伊丹市)の一角に研究所を構え、いよいよ医薬品開発に挑み始めたのである。
場所と資金の提供を受ける、いわば〝企業内起業〞です。最初は何もないでしょう、まずは人集めと、社長に頼んで上野製薬の新入社員を回してもらうなど、環境を整えるのに必死。振り返れば、天才型である上野はインベンションを、私はディベロップメント+ほか諸々という、きれいな棲み分けは最初からできていましたね。
ここで出てくるのが高校生の頃の話。先述したように、一芸に秀でていないのが私のコンプレックスだったけれど、医薬品開発って、いくつもの案件を同時並行で動かさなきゃならない。人やお金集めはもちろん、臨床試験や薬理試験、あるいは工場を建てる話とか。それが、私にとっては難なく、むしろ「たくさんのことを一挙に動かすのは超得意」だとわかったのです。この気づきは大きかったですね。
様々あるプロストンのうち、「どれをどの病気に対して開発していくか」。私たちは中枢神経系の薬を手がけたかったんですけど、ケタ違いに大きな研究開発費が必要になるので、まずは中枢に近い目、緑内障をターゲットにしました。そして、数多の候補から探し出したのがウノプロストンという物質です。この頃に使われていた緑内障の薬は心臓への副作用があったのですが、これは副作用なく効果が出る。日本で新薬として製造承認が下りたのは94年、「レスキュラ点眼液」として販売することになりました。臨床から申請までの期間は4年くらい。当時としてはあり得ないほどの早さでした。
※本文中敬称略
最初の新薬で成功を収め、アメリカへ。〝第2弾〞に挑む
「レスキュラ点眼液」は現在、世界45カ国で承認され、累計売上高は1500億円にのぼるという。しかし当然のことながら、世に出すまでは並大抵ではない道のりを経てきた。頓挫することなく製品化が実現した背景には、「幸運な出会いに恵まれた」としつつも、プロデューサーとしての久能の高い手腕があったのは確かである。
人材面で思い出深いのは、臨床試験を手伝ってもらう人を東京にまで出向いてスカウトしたこと。紹介を経て出会ったのは、臨床開発一筋に歩んできた品川一郎さん。製薬会社でいくつもの臨床試験を成功に導き、成功確率9割といわれていた〝伝説の人〞です。65歳でリタイアするタイミングだったのですが、品川さんは私たちのアイデアを面白がって、すぐに大阪に来てくださった。まさに開発の天才で、私は本当に多くのことを学びました。途中、品川さんが病に倒れ、入院している間は病院に通いながら教えてもらったものです。結局、レスキュラが発売される少し前に亡くなってしまい……それが今でも残念でなりません。
お金のほうは、やはり資金繰りが難題でした。開発が進めば進むほど、必要なお金は膨らんでいくから。上野製薬からの援助が30億を超えたあたりの頃です。ある日、社長室に呼ばれて「お金を返してほしい」と言われたのは。「えっ!」ですよ。論文ばかり書いてきて、こういうことに疎かったから、「そうか、投資ではなく返すお金だったのか」と(笑)。これが、私をプロフェッショナルにした原点です。
上野製薬に返済するにしても、途中でやめてしまったら回収の見込みすらなくなる。銀行からも借金し、加えて新薬の販売権を売ることにしました。提携先となったのは藤沢薬品工業(現アステラス製薬)で、得た資金をもとに開発を続けてきました。この時、ありがたいことに、藤沢薬品は専門家を送り込んで臨床実験のデータの取りまとめを手伝ってくれたのです。品川さんと同様、人との出会い、助けがなければ成功はなかったと思う。私のターニングポイントになった最も思い出深いプロジェクトです。ちなみに、先にはなりましたが、上野製薬にはレスキュラに投じた開発費の何倍ものお金を返し、損はさせませんでしたよ(笑)。
プロストンの大きな潜在力を認め、次なるファースト・イン・クラス(画期的医薬品)の開発に挑もうと考えた久能らは、拠点を米国に移す。上野製薬からの支援打ち切りに加え、バブル崩壊後で景気が後退していた日本では〝第2弾〞開発の壁は高かったからだ。米国で「スキャンポ・ファーマシューティカルズ」を設立したのは96年である。
プロフィット面でいえば、当時のアメリカ市場は世界の半分を占めていたんです。臨床実験もやりやすく、エイズワクチンをやっていた頃の関係者との縁もあり、アメリカでの新薬開発には十分な可能性を感じていました。ターゲットにしたのはやはり中枢神経に関係あるもので、消化器です。今度はルビプロストンという化合物で慢性の重い便秘を対象にした薬の開発を始め、10年経たずしてFDAから製造販売の承認を得ることができました。それが「アミティーザ」で、プロストンとして2番目となった医薬品です。
この時も資金調達は苦労しました。03年頃、開発はうまくいっているのにピンチを迎え、IPOを計画したのですが、アメリカではITバブルが弾けて一社も上場できなかった。結局、レスキュラの時と同様、資金調達のために武田薬品工業の米国法人に販売権を売ることを決断。で、マーケットはどうだったかというと、予想を大きく超える規模となり、累計6000億円の市場に成長しました。正直、私としては販売権を売りたくなかったけれど、会社を潰しては元も子もないですから、状況としてはやむを得なかった。開発した薬がたくさん売れるのは嬉しいけれど、ビジネスとしては忸怩たる思いがありましたね。
新薬開発に走り続けてきて、もちろん大変なことは多々ありました。でも、それ以上に夢中になれる面白さやワクワク感があったし、何より科学者としては、インベンションから〝出口〞までを見られたことは非常に幸運だったと思っています。
※本文中敬称略
未来と次世代を見据えて――。チャレンジはなお続く
すでに米国で財団を設立し、〝若い才〞支援に取り組み始めていた久能は、つ目の新薬開発を成功させたところ会社経営の一線から退き、その支援動に軸足を移す。若い社会起業家やーティストを育成する寄宿型の「ハシオン・インキュベーター」(コロンア特別区)を創設したのは14年、能がちょうど60歳になる年である。
場所として選んだのは、ジョージタウンにある歴史的建造物です。「ハルシオン・ハウス」という邸宅を購入し、レジデンス付きインキュベーターとして始めました。枠は8人ですが、常時、全米から500人くらい応募してきますね。例えば、社会起業家の場合だと1年半のプログラムで、5カ月間は一緒に生活し、あとの13カ月間は資金調達や事業化に挑む。その間、個々の人には相談相手として経験豊富なメンターや専門家が付き、事業プランの練り上げを手助けしてくれるという、つまりはエコシテスムを構築したわけです。ハルシオン・モデルと名付けたこのプロダラムから巣立った若者たちが創業した会社は、70社を超えています。
今進めているのは、ハルシオン・モデルの日本版で、昨年「フェニクシー」というインキュベーター企業を立ち上げました。日本で起業する人は2割にも届かず、欧米に比べればかなり少ないのですが、だからこそ「試してみたい」という思いがあるんですよ。ただ、ハルシオン・モデルをそのまま日本に持ち込んでも難しいので、考えたのは「サバティカルで来てください」と。企業に勤める人材が所属企業とのつながりを維持したまま、自由な挑戦ができる場にしたのです。うまくいったら跳ぶ、ダメだったら会社に戻れるという仕組み。他方、人材を送り出す企業にはスポンサーになってもらい、投資ができるシステムにしました。
すでに関係者は出そろい、この6月から京都でトライアルが始まります。どうなるか、先行きはわからないけれど、私は日本には多くの才能が埋もれていると思っていて、それを解放していく支援をしたいのです。そして、新しいことに挑もうとする人たちを応援するムードを日本に創生すること、それが私の〝アイランド構想〞なんです。
医薬品開発においても、久能は経験を生かし、若手研究者の後方支援を続けている。12年に共同設立した画期的なワクチン開発を目指す「VLPセラピューティクス」では、「76億人に届く医薬」を夢に掲げ、有形無形の援助を提供。また、昨今では母校である京大で教鞭を執るなど、日米を行ったり来たりの日々は多忙を極めている。
いくつもの構想を立ち上げ、ゴールを定め、自分で動かしていくのがやっぱり好きなんですよ。振り返ると、だいたい5年から7年でプロジェクトを一定終えて、次に向かうというパターンです。いい組織、特にアントレプレナー型の組織というのは柔軟なほうが健全だと考えているので、いつまでも私がとどまっていると道を塞ぐことになっちゃう。それもあって、バトンはなるべく早く次の人に渡して、「さあ、新しいこと」となるわけ(笑)。
次の5年は……まだモヤモヤしている段階ですが、関心事としていつも頭にあるのはアントロポセン(人新世)です。これは50年代前後に始まったという説が有力で、要は、人口の増加や都市の巨大化、温暖化などといった様々な事象が地球環境に甚大な影響を及ぼしてきた時代を指すものです。この非常に不確実な転換期が、向こう100年くらいの間、続くだろうと。みんな「戻さなきゃ」と言ってきたけれど、人間が地球に与えてしまった影響は不可逆的、戻らないんですよ。なら「人間と地球はどうしたら共存できるか」をやってみたい。話が大きいでしょう(笑)。何か新しいグローバル・バリューをつくり出すということを、日本から、できれば京都から発信したいのです。今は霧がかかっているけれど、それを晴らすのが私の仕事なので、なるほど!の瞬間、アハ・モーメントが訪れるのを待っているところです。
そう、わからない世界が前にあるから、我々科学者は分け入っていくわけです。すでにある答えに向かっていくのは本分じゃないと思いますね。研究にしても事業にしても、自分でテーマを選び、前を向いて一つひとつを選択・決断し、やり遂げていく。これが一番大事。私がよく言っているのは「Big Vision, Small Steps」です。高い山の頂に登った時の風景を想像しながら、這うようにして歩を進める。勇気を持って様々な課題やクライシスに立ち向かう人たちがもっと増えてほしい――願いはここにあります。
※本文中敬称略
Profile
S&R財団 理事長兼CEO
Halcyon 創設者兼議長 博士(工学)
ジョンズ・ホプキンス大学理事
モーリーン&マイク・マンスフィールド財団理事
メリディアン国際センター THIS for Diplomats 諮問委員会メンバー
京都大学大学院総合生存学館特任教授
京都大学経営管理大学院特命教授
京都造形芸術大学文明哲学研究所客員教授
久能 祐子
1954年 | 12月8日 山口県下松市生まれ |
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1977年 | 京都大学 工学部工業化学科卒業 |
1981年 | ミュンヘン工科大学に留学 1983年 京都大学大学院 工学研究科 後期博士課程修了 三菱化成生命科学 研究所(当時)入所 新技術開発事業団(当時)入所 |
1989年 | 株式会社アールテック・ウエノ 共同設立 |
1996年 | スキャンポ・ファーマシューティカルズ 共同設立 |
1999年 | ジョージタウン大学 経営学認定コース修了 |
2000年 | S&R財団共同創立 |
2012年 | VLPセラピューティクス共同設立 |
2014年 | ハルシオン・インキュベーター設立 |
2018年 | 株式会社フェニクシー設立 |
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