ニュートリノ振動を発見したが、いつ役に立つかはわからない。
人類が知的財産を築く営みを、ずっと認める社会であってほしい
東京大学卓越教授・特別栄誉教授
宇宙線研究所長
博士(理学)
「数値がおかしい」。梶田隆章が、ノーベル賞受賞の端緒となったそのデータを目の当たりにしたのは、東大大学院を修了し、助手となって間もない1986年のことだ。〝間違い〞で済ますことも可能だったかもしれない。しかし、理論と異なる現象をそのままにできない〝実験屋魂〞が、やがて素粒子物理学の定説を覆す「ニュートリノ振動」の発見に彼をいざなうことになる。そこには幸運もあった。何より、好きな研究に没頭できる環境があった。だからこそ、当時の環境が過去形になりつつある大学の現状も、〝そのまま〞にするのを潔しとはしない。
高校の成績は〝中の下〞。大学で物理の面白さに開眼し、素粒子の世界に
梶田は59年、埼玉県東松山市郊外の農家の長男として誕生した。本人曰く、「何も考えずに育った、普通の子供」だった。「幼少の頃から大の読書好き」というネット情報も、「誰がそんなことを書くんだか」と笑う。高校では弓道部に入り、その甲斐あってかどうかは不明ながら、入学時に160センチそこそこだった身長が、卒業する時には180センチになっていた。
進学した県立川越高校は進学校で、最初は授業のスピードについていけずに、成績は半分より下だったんですよ。中学では得意だった数学も、わからなくなり、試験も散々でした。
高校で弓道部に入ったのは、どちらかというとひ弱で背は低いし、体力勝負の運動はきつそうだと思ったから。カッコよくいえば、弓道は「自分が相手」というところが魅力。いざ本番という時に、どう気持ちを持っていくかだとか、学ぶことも多かったですね。
卒業後の進路を決める段になると、教科の好き嫌いや自分の将来を天秤にかけつつ、いろいろ悩みました。物理の成績は悪くなかったのだけど、生物化学も将来性がありそうだとか、環境科学なんていうのも面白そうだとか。結局選んだのは、埼玉大学の物理です。浪人して大学進学を目指すような人間も多い高校でしたけど、私は受験勉強をもう1年というのは、勘弁してもらいたかった(笑)。
大学でも弓道を続け、3年生で副主将になっていた梶田に、またも進路選択の時が訪れる。このまま進級して主将を務めるか、それとも大学院進学の準備を始めるか。決め手になったのは、「物理の面白さをちょっとだけ垣間見た」という思いだった。
弓道では大学時代に苦い思い出があって、3年の秋の大事な試合で、自分が足を引っ張るかたちで団体戦に敗れてしまったんですよ。後から考えると、ちょっとした気の緩みが出てしまった。人生で二度とこんなことを繰り返してはいけないと心底反省しました。あの体験が、これまでの研究者人生にもずいぶん役立った気がしているのです。
大学でも、そんなに真面目に勉強したわけではなかったのですが、物理の講義自体は面白いのもありましたね。高校のような知識の詰め込みではなくて、「こういうふうに考えるのだ」という本質を教わる楽しさがあったのです。3年の秋に大学院に行くことを決意したのは、そうやって興味を覚えた物理の世界からこのまま去るのは忍び難い、くらいの気持ちだったんですよ。素粒子を研究しようと思ったのも、別段深い考えがあったわけではないのです。自然界の成り立ちを知りたいというか、物理の根本の面白さは、この世界の基本法則を知る研究活動ではないかと漠然と思ったのが動機、といえばいいでしょうか。とにかく実験をやって、真実を探求してみたいという気持ちもありました。
ただし、素粒子の実験をやっている研究室は、当時そんなに数が多くはなかったんですよ。それに、各研究室がサイトを設けてアピールするような今とは違い、募集要項にはほんの一行、研究内容が書かれているだけで、正直それぞれの違いもよくわからない。だから、東大の小柴昌俊先生の研究室を選んだのも、「どうしてもあそこに行きたい」という強い思いがあったわけではなかったのです。
※本文中敬称略
カミオカンデ建設に従事。研究者として生きる決意を固める
後から思えば、この時、ニュートリノ研究の先駆者にして、のちにノーベル賞を受賞する小柴研究室の門を叩いたことが、梶田の運命を決めた。とはいえ、「募集要項の一行」には、「電子・陽電子衝突実験を行う」とあったのみである。恩師自らが設計し、数々の世界的発見の舞台となったカミオカンデの〝カ〞の字も、そこにはなかった。
岐阜の神岡鉱山地下1㎞ぐらいのところに設けられ、宇宙から飛んでくるニュートリノを観測する施設がカミオカンデです。ひと言でいえば、3000tの水をたたえた巨大なプールの壁に、光電子増倍管という検出装置をたくさんくっつけた構造になっていて、それで水中を走る放射線を捕らえる仕組みです。87年、実際に大マゼラン星雲で起きた超新星爆発で生じたニュートリノの観測に成功して、一躍世界の注目を集めました。その功績が認められ、小柴先生がノーベル賞を取ったわけですね。とはいえ、私が大学院生になった81年当時、まだそれは着工前の段階で、そんなプロジェクトがあるなんて、知る由もなし。院に入っていきなり、2年上の先輩から「神岡で実験を始めるから、一緒にやらないか」と言われたのが、カミオカンデに入ったきっかけだったんですよ。
実験といっても、そのためにはまず〝実験場〞をつくらなければなりません。2年間は、さらにその準備期間でした。例えば、水中でどうやって水が入らないようにケーブルを接続するかの研究開発(笑)。光電子増倍管は1000本あったのですが、どれも僅かながら性質が違うんですよ。それぞれに何ボルトの電圧をかけたらそれを均質にできるのか、一本ずつチェックするのも大事な仕事でした。
修士論文を書き終わったぐらいから、今度はその装置を現場に設置する作業です。プールにボートを浮かべて、増倍管を一つひとつ手作業で設置していく。当時、神岡鉱山はまだ操業していて、私たちは鉱山の人たちと一緒に、地下トンネルをトロッコ列車に揺られて現場に行き、来る日も来る日も取り付け作業をやりました。
嫌にならなかったか、ですか?そうですね、同じ環境に置かれたら、「大学院まで来て、何をやっているのか」という心境になる人もいるかもしれません。でも、私はまったくそんな気持ちにはなりませんでした。
カミオカンデが、科学的な目標が極めてクリアな実験だったということも大きかったと思いますが、とにかく現場で何ごとかやっているのは、楽しくて仕方なかった。自分のことを「実験屋であって、理論屋ではない」と言ったりするのだけど、毎日論文を読み、毎日論文を書くみたいな研究生活は、私には絶対に無理だと思います。
博士課程1年目の83年、めでたくカミオカンデは完成し、データの収集が始まる。ところで、この観測装置の当初の目的は、陽子の寿命を突き止めること=陽子崩壊の実証だった。だが、時が経っても思うような結果は出ない。そんな中、プロジェクトは小柴氏の決断で太陽ニュートリノの観測に方向転換し、装置も改造される。偶然乗りかかった船は、成功という名の新大陸に向かって、大きく舵を切っていた。
カミオカンデができてからは、ひたすら観測を行い、データを解析する毎日です。「これは!」という結果には、なかなか出合えませんでしたが、さっきも言ったように「何のためにやるのか」が明確でしたから、モチベーションの高い日々を過ごせていました。
正直いって、大学院に進学した頃には、将来の明確な絵は描けていなかったんですよ。研究者としてやっていける力が自分にあるのかどうかもわからない状況だったし。でも、カミオカンデと本気で向き合っているうちに、自分が進むべき道はこれだ、と確信が持てるようになっていきました。そして博士号を取った頃、この分野の研究者を目指そうと心に決めたのです。
と、決意したまではよかったのですが、応募した日本学術振興会のポスドク制度には、見事に落ちてしまった。それを見た小柴先生が、東大理学部の素粒子物理国際センターの助手として採用してくださったのは、本当にありがたかったですよ。1年の期限付きだったのですが、それでも職探しはうまくいかず、頭を下げて結局2年、そこにお世話になりました。
当時、素粒子センターは、スイスのジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)の国際共同研究に参加していたので、そちらの仕事を手伝うのも私に課せられた任務。2年間で、のべ7カ月ぐらいヨーロッパに行ったでしょうか。この期間は、カミオカンデとCERNと半々ぐらいのウエートで、研究をやっていましたね。
※本文中敬称略
誰も見たことがない現象を捕らえ、ノーベル賞を受賞
かけもちではあったのだが、〝欧州での手伝い〞は、比較的自由になる時間も多かったという。カミオカンデのデータ解析をどう改良していったらいいのか構想を練り、帰国して実際にプログラミングするといった作業をしていたある時、梶田は「おかしなこと」に気づく。助手の職に就いてから半年後の、86年のことだった。
観測データの数値が、予想から明らかに〝ずれて〞いたのです。ごく簡単にいうと、ニュートリノにもいくつかのタイプがある中で、観測されたその成分比が、理論上の予測と大きく異なっていた。最初は、「プログラムが間違っているのだろう」と思ったんですよ。本当にそれくらいの〝異常値〞でしたから。他方、「もしかすると何か重大なことを掴みかけているのかもしれない」という直感があったのも事実です。ニュートリノ振動の可能性も考えたけど、この時のデータでは何もいえませんでした。
いずれにしても、結果が出た以上、それを放っておくわけにはいきません。間違いであるのならば、どこに問題があったのかを明らかにする必要があります。間違ったまま進んでいったら、カミオカンデのプロジェクト自体をミスリードしてしまうかもしれない。やったのは、データ解析プログラムの中にあるかもしれない間違いの可能性を、一つひとつ消していくことでした。
振り返ってみると、私は本当にラッキーだったと思うんですよ。当時、カミオカンデの規模、観測精度を遥かに凌ぐスーパーカミオカンデの設置計画が具体化して、東大宇宙線研究所が、そこでの研究を将来に向けた重要プロジェクトに位置付けてくれた。そのおかげで、88年にはそちらに移り、カミオカンデ関連の研究に専念できる環境が整ったのです。
スーパーカミオカンデは、カミオカンデの10倍以上の容積を持つ、現在でも世界最大のニュートリノ観測装置です。先ほど、カミオカンデに取り付けられた光電子倍増管が1000本という話をしましたが、こちらは大小取り混ぜて1万3000本。単に規模が大きくなっただけではありません。最初からニュートリノの観測用に設計されたという点も含めて、得られるデータの精度、質も大きく向上しました。
ちなみに、私はカミオカンデの時と同じく、その設置作業にも直接かかわったんですよ。そうやって自分たちで測定器をつくることには、ちゃんと意味があります。見たこともない機械と違い、例えば何かトラブルがあっても、どこを疑うべきなのか、なんとなく見当がつくわけです。まあ、目の前で自分たちの手による観測器がだんだん形になっていくわけで、それを眺めながら手を動かしているのが、理屈抜きに楽しかったんですけどね(笑)。
待望の観測装置は、着工から5年後の96年春に稼働する。だが、なにしろ情報量は膨大だ。解析がなかなか追いつかず、2年後の98年になって、ようやく一つの結論にたどり着く。確かめられたのは、ニュートリノが飛行中にほかのタイプに〝変身〞する事実である。カミオカンデで観測したデータの〝おかしさ〞の正体は、このニュートリノ振動と呼ばれる現象だったのだ。かつての素粒子物理学の基本法則では、ニュートリノに質量はないとされていた。だが、質量がなければ〝振動〞は生じない。まさに原理原則の書き換えを迫る大発見。梶田は、この成果を同年のニュートリノ物理学・宇宙物理学国際会議で発表し、大きな反響を呼ぶ。そして2015年、ノーベル物理学賞受賞の栄誉に浴すのである。
あの頃は、毎年秋になると、新聞記者から所在を確認する電話がかかってきましたから、否応なしにノーベル賞を意識させられました(笑)。ある日、携帯が鳴って、見ると普通じゃない番号が表示されていて。「誰だ、これ?」というのが、受賞の知らせでした。当たり前のことながら、この成果はノーベル賞受賞者だけで到達しえたものではありません。そもそもスーパーカミオカンデがなければ、ニュートリノ・データの収集はできなかった。その測定器は、前身のカミオカンデでの超新星ニュートリノの発見をはじめとする功績を認めてくれた人たち、ある意味世界中の支持があったからこそ、実現したのです。
ところで、先ほどの助手になりたての頃、「理屈に合わない」データに遭遇した話ですが、実は当時私がターゲットにしていたのは、ニュートリノではありませんでした。ずっと頭の中を占めていたのは、陽子崩壊の解析方法だったのです。その過程で、「あれ?」という数値が出た。そこであやふやなままにせず突き詰めていった結果、考えもしなかった発見に行き着いたというわけです。
きっかけは偶然ながら、そこで感じた疑問や興味を、そのままにはできなかった。研究ってそういうものじゃないかと思うんですよ。
※本文中敬称略
「高等教育の緩やかな破壊」に抗し、声を上げ続ける
08年に東大宇宙線研究所の所長に就いた梶田は、17年度に「国立大学附置研究所・センター長会議」の会長も務めた。そうした立場から、公の場でたびたび発信しているのが、「大学研究の危機」である。ノーベル賞受賞者による、「このままでは、日本からノーベル賞は出なくなる」という言葉以上に、説得力ある警告があるだろうか。
最近、中高生などに話をすると、「ところで、ニュートリノって何の役に立つんですか?」という質問を受けることが、結構あるんですよ。そこには、未知のものに対するワクワク感のようなものは、微塵も感じられません。若い世代にまで「学問は役立ってナンボ」という発想が蔓延しつつある状況には、驚きを通り越して怖ささえ感じます。
今、大学は、そうした考え方が〝お金〞を伴って強制される状況にあります。国からの運営交付金は、〝効率化〞の名の下に大幅に削られ、その結果、大学は若い助教ポストを切らざるをえない。そうなると、上の世代の負担も増えます。全体として、腰を落ち着けて研究できる舞台や環境が、急速に失われているんですね。私にいわせれば、国による高等教育の緩やかな破壊です。
私があれやこれやとデータ解析に勤しんでいた頃の時間、ゆとりは、大学の現場から消えてしまいました。もし、今の環境に置かれていたら、私はノーベル賞など取れなかったでしょう。このままでは、科学技術分野で欧米に置いていかれるのみならず、進境著しいアジアの国々の後塵を拝すことになるのが目に見えています。
はっきりいって、ニュートリノは、100年後も役になど立っていないと私は思いますよ(笑)。でも、そうした研究は、人類の知的財産を増やし、豊かにする営みといえる。そこに価値を認め、チャレンジを許し、促す国や社会であってほしい。そうした価値観が、科学技術に拠って立つ日本の礎にはあったはずなのです。
これからも、言うべきことは声を大にして言い続けたいですね。それは、曲がりなりにも恵まれた環境で研究成果を上げることができた人間の、一つの使命であり恩返しだと思っています。
およそ200人のスタッフを束ねる宇宙線研究所の所長としては、「将来に向けた研究の方向性を定めていくのが、最も重要な任務」だと梶田は言う。その目に映る次なる〝人類の財産〞とは、どんなものなのだろうか。
昨年、文部科学省の「学術研究の大型プロジェクトの推進に関する基本構想ロードマップ」に、7つの大型プロジェクトの一つとして「ハイパーカミオカンデ構想」が掲載されました。スーパーカミオカンデのさらに10倍の容積を持つ測定器を建設して、一層精緻で幅広い観測を行っていこうという計画です。そこでのテーマには、ニュートリノに加えて陽子崩壊の観測も含まれているんですよ。
ニュートリノに続く、宇宙線研究所の重要テーマに位置付けているのが、重力波です。ひとことで言うと、「重力がもとになって生まれる宇宙からの波動」のことで、これを観測して、宇宙の構造や進化の解明に大きく貢献したいと思います。例えばどのようにブラックホールが生成されたかなどの謎の解明に近づけるのです。
研究所では、重力波を直接観測する「KAGRA計画」を推進しています。やはり神岡の地下に大型で低温鏡を用いた重力波望遠鏡を設置し、検出した重力波を基に、宇宙の姿を詳しく調べようというプロジェクトなんですよ。
重力波に関しては、アメリカの観測施設が初の直接観測に成功し、昨年、ノーベル賞を受賞しました。ただ、その発生源の特定などには、どうしても地理的に離れた最低3台による観測データが必要になる。やはりプロジェクトが進行中のヨーロッパを含め、国際協力で本格的に宇宙の深淵な謎に挑んでいく日が、遠からず来るのでしょう。研究所の所長というポジションに就き、ノーベル賞も取ったけれど、私の思いは、「いつまでも研究者の一員でいたい」ということに尽きます。若い人たちに言いたいことも単純で、何かに興味を持ったら、その興味に従って研究を続けてもらいたい。好奇心、探求心に忠実に。それが研究の基本です。
※本文中敬称略
Profile
東京大学卓越教授・特別栄誉教授 宇宙線研究所長 博士(理学)
梶田 隆章
1959年3月9日 | 埼玉県東松山市生まれ |
---|---|
1981年3月 | 埼玉大学理学部物理学科卒業 |
1986年3月 | 東京大学大学院理学系研究科 博士課程修了 |
4月 | 東京大学助手(理学部附属素粒子物理国際センター) |
1988年4月 | 東京大学助手(宇宙線研究所) |
1992年4月 | 東京大学助教授(宇宙線研究所) |
1999年4月 | 宇宙線研究所附属 宇宙ニュートリノ観測情報融合 センター長(2016年3月まで) |
9月 | 東京大学教授(宇宙線研究所附属宇宙ニュートリノ観測情報融合センター) |
2007年4月 | 東京大学国際高等研究所 カブリ数物連携宇宙研究機構 主任研究員(兼務) |
2008年4月 | 東京大学宇宙線研究所長 |
2015年10月 | 埼玉大学フェロー |
2016年 1月 | 東京大学特別栄誉教授 |
2017年3月 | 東京大学卓越教授 |
主な受賞・栄典
朝日賞(1988年神岡実験グループとして・1999年スーパーカミオカンデグループとして)、
ブルーノ・ロッシ賞(1989年神岡実験グループとして)、
パノフスキー賞(2002年小柴昌俊氏・戸塚洋二氏との共同受賞)、日本学士院賞(2012年)、
ノーベル物理学賞(2015年)、
文化勲章・文化功労者(2015年)、
基礎物理学賞ブレークスルー賞
(2016年スーパーカミオカンデ共同実験グループとの共同受賞)ほか多数
ありがとうございました^^