日本の社会をどう創造していきたいか、その研究を通じて何を創造したいか。
しっかりとしたベクトルを持つことが何より重要である
国立研究開発法人理化学研究所
生命機能科学研究センター
器官誘導研究チーム チームリーダー
博士(理学)
昨今、急速に研究が進む再生医療。その第3世代(器官再生)の最前線に立つ辻孝は、常に研究開発をリードし、大きな成果を挙げてきた。2007年、2種類の幹細胞を組み合わせて器官の〝タネ(原基)〞をつくり出す「器官原基法」を開発。次いで、この技術によって歯、毛包、唾液腺、涙腺の機能的な再生が可能であることを世界に先駆けて実証、大きなインパクトをもたらした。「どれだけ社会や人々の役に立てるか」。辻の根源的なモチベーションはここにある。だからこそ基礎研究のみならず、産学連携による産業化にも力を注ぐ。辻が研究者人生を懸けて追究しているのは、機能的な器官再生医療の実現、すなわち「新しい医療の扉」を開くことだ。
早かった自我の確立。経験の一つひとつを学びに変え、自ら動く
岐阜県美濃市で生まれ育った子供時代は、山に分け入ったり、河川で魚を獲ったり、「自然のなかで遊ぶのが日常だった」。教科書に書かれている事柄をただ覚えるような勉強がきらいで、学校の勉強とは無縁。むしろ、鶏肉店を営む実家の商売を見て育ったことが、「その後の人生にとって一番いい教育になった」と辻は振り返る。
小学校4年くらいから、店の配達や貸し売りの集金を手伝わされていたんですよ。田舎といえども貸し売り先は数十軒。集金に行って普通に回収できる家もあれば、そうじゃない家もある。「子供が偉いね」と褒めてくれる人、「買ってない、間違ってる」という人まで、それはもう様々。田舎なので、すべての住民がお客さんでしょう、あいさつに始まって大人たちと話をする、交渉するといった環境は、今思えばすごくいい教育になった。父親も子供相手に商売の話をしていたし、僕は早くから大人びていたように思います。
中高生になっても、知識を記憶するだけの勉強には全然関心がなく、力を入れていたのは高校から始めた弓道の部活。僕は部長じゃないのに〝鬼的〞な存在で(笑)。というのは、弱かった部を鍛えて、数年後にはインターハイに出場できるまでにもっていくと決めていたから。それは実際に後輩たちが2年後に叶えたんです。先を見据え、成果を達成するために今は何をすべきか……を考え、自分にも厳しく実行したこの経験は現在につながっています。
実質的に勉強を始めたのは大学受験を意識してからです。予備校に行くにも2時間かかるから、僕がやっていたのは自分で本を読むこと。もともと理系で医学や生物学に関心があったので、その類の岩波新書を片っ端から。なかでも影響を受けたのが岡田節人先生の『試験管のなかの生命』という本で、「生命科学の研究が面白いかも」と興味を持ったのはここからですね。
医師になって患者を助けたいという思いから、医学部を目指して勉強した時期もあったが、「独学では力及ばず」、辻は方向性を生物学に定めた。折しも遺伝子が分子レベルで解かれ始めた時代で、関心も強かった。最終的に取った進路は新潟大学の理学部である。
学部教育に入ってわかったのは、研究系ではない地方大って最先端の学問には全然届かないということ。例えば、発生生物学の教科書が古いとか、実習といえば、高校時代と同じような顕微鏡を使ってタマネギの皮をスケッチするとか……。それを知った瞬間に「もう行かなくていいや」と(笑)。実際、講義にはほとんど出ず、同じ関心を持つ仲間や高額な顕微鏡を6畳一間に持っているマニアと、遺伝学などの新しい本を入手しては読み、ディベートするという日々。未来の学問を夢見て仲間と話をするのは楽しかったですね。
ガンの研究をしていた三井宏美教授が新潟大学に着任したのは、4年生になる頃。「先端的な細胞生物学ができる」と思った僕は、強引にアプローチして入り込み、研究室づくりから一緒にやったんです。最初に細胞培養の仕方を教えてもらって、「あとはよろしく」という感じでしたが、これがよかった。大学院に進んだのも、一つには三井先生の存在が大きかったからです。
地方大学の院ですし、先生も着任したばかりで研究費もなく、研究環境は脆弱でしたが、面白かったのは他の地区にある医学部で実験を重ねたこと。生化学やウイルス学など、〝よそのラボ〞にある機械を使わせてもらうわけです。三井先生が話をつけてね。僕らは先生に論文を書いてもらいたくて、死ぬほど実験してデータを取りまくっていました。それが後の力になっています。そして、研究費や機器が手許になくても研究はできる、学部や学科、自分がいる場に制約される必要はないことを、僕はこの時に学んだのです。
※本文中敬称略
医学・生物学の研究を重ねながら、生涯のテーマを模索
「外に出よう」。アカデミアが面白いと思いつつも、大学から一度は出てみないと、世の中で求められている研究がわからないと考えた辻は、山之内製薬(当時)に研究員として就職。そして、その後は九州大学や母校である新潟大学へと足場を移していくのだが、それは、ライフワークとしての研究対象を探す〝旅〞の始まりでもあった。
薬はうまくいけば何千万人と助けられる。そう思って医薬に進んだものの、山之内製薬に入って実感したのは自分の学問の基礎体力のなさ。当然ですが製薬会社の基本は化学で、生物系の僕には知識もない。新たな勉強をすべき時期でした。「石の上にも3年」と決め、覗けるものは全部覗こうと。だから、研究だけでなく、社会や企業の仕組みを学んだ3年間という感じですね。
研究者として「自分にしか解けないやり方、考え方」が必要だと痛感し、九州大学大学院に移りました。会社員時代に聞いた中村敏一教授の講演がすごく面白かったんですよ。肝臓再生の仕組みに惹かれた僕は、ここから〝再生〞に入ったのです。ただ3年遅れでドクターコースに戻ったので、もう必死。心に決めていたのは「何としてでもいい研究成果を挙げる」です。
中村先生に「一番大事な仕事を」とアプローチして、最初に取り組んだのがガンの増殖因子とされていた分子の同定。遺伝子の構造を決める研究課題を与えられ、文字どおり研究だけの日々でした。先生は本当に厳しい人で、何度怒鳴られたことか……。成功したのは1年半後で、学術誌『PNAS』への掲載が決まった。これで僕は、研究者デビューを果たしたわけです。
その後も、先端的な研究に果敢に挑戦する日々でしたが、徐々に教授との考えが合わなくなり、さらに新潟大学でお世話になった三井先生の死……。〝最初の学生〞として学位を取ると頑張っていた緊張感がプッツリ切れた。また留学も反対され、結果、新潟大に戻ることにしました。修士時代に共同研究していた森和博教授が「学位を取らせてやる」と呼んでくださって。その教授の下で骨髄の造血幹細胞の研究をしつつ2年間を過ごしました。この研究生時代は、いわば〝人生浪人〞として生きようと決めた時期でしたね。
「与えられた課題を解くこと」と「自ら研究テーマを考えること」はまったく違う。この課題を持ち続けたまま、辻はさらに動く。アカデミアから離れ、日本たばこ産業(JT)・生命科学研究所に入所したのは1994年、32歳の時だった。「面白いからではなく、職業として研究を選んだ点で、大きな分岐点となりました」。
入所にあたっては先の『PNAS』が業績として評価され、どうも見込まれたようです。でもそれは、裏を返せば期待値が高いわけで、僕としては「成果を出さなければ」という緊張感が大きかった。早々に「やりたいことを企画書に」と言われ、僕のために用意された予算は当時で約6000万円。その時の恐怖感たるや……。「Doctor ofPhilosophy(PhD)」って「哲学を持った人」を指すでしょう。山之内時代、博士号取得者に対して「あなたの哲学は?」と息巻いていた僕としては(笑)、逆に自分がその立場となって、さてそのレベルに届いているのかと。よく学位を取ってからが勝負だと言いますが、この時に一番重く感じましたね。
決めた研究テーマは、人生浪人した新潟大学で見た「骨髄の環境をシャーレの中で再現して造血幹細胞を増やし、新しい概念であった細胞医薬品にすること」。今の再生医療の先駆けです。生物の身体の中の仕組みを再現して造血幹細胞の自己複製の仕組みを解き、生体外で増やそうと。造血幹細胞は胎盤に含まれていますが、取れる量が少ないので、白血病の治療で使えるのは子供まで。それを増やして細胞医薬品にできれば、1年間で100万種のライブラリーができて移植のタイプが合う提供者を探す必要もなくなる。生体外増幅を確立したのはこの時代で、成果は、のちに東海大学で行われた世界初の生体外増幅の幹細胞移植につながっています。ただ、JTは民間企業なので、倫理問題などからビジネスモデルにはしないと判断しました。
自分の研究計画、ひいては人生のビジョンをどう描くか。目標とするゴールを設定し、ブレイクダウンして今日の一歩を決める。僕はJTでの研究開発で、そのトレーニングを徹底的にできたように思います。研究開発のプロジェクトマネジメントって、なかなかシステムとして教わる機会がないので、自分自身で研究開発の中でそのシステムを創造できたことは大きかったです。
※本文中敬称略
ブレイクスルーを経て器官再生を実証。次々と成果を挙げる
辻の胸には、いずれアカデミアに戻り、大学でラボを持って自立したいという思いがあった。それまでの研究実績を手に、次のステージを求めたのは38歳の時。複数の大学にアプライするなか、導かれるように出合ったのが東京理科大学であった。
理科大の基礎工学部が再生医学の分野で公募を出していた。当時としてはあり得ない話です。多くは医学部の研究者が対象になるところ、しかも教育歴のない僕がチャンスをもらえたのは、細胞医薬の概念を持ち、応用にまで伸ばそうと考えていたからでしょう。これも一つの巡り合わせ。いつも思うのですが、僕は本当に人生の節目でいい出合いに恵まれ、助けられてきました。
ラボを持った01年は、再生医療が第2世代に入ったタイミング。細胞種を組織化してシート状の細胞に加工する研究が始まった頃です。それを今から始めても遅いので、第3世代である器官(臓器)再生の技術開発に特化しようと。その最初のモデルに選んだのが歯。肝臓や腎臓も考えたのですが、大型で複雑な三次元構造を構築するのは、例えれば何十万階建の超高層建築に挑むようなもの。臓器のタネ(原基)が大きくなるのに時間がかかるし、動物実験は生き死ににかかわります。歯や毛は発生生物学の研究が進んでおり、移植などの治療も確立されている。器官再生の技術開発を進められれば、臨床応用への道筋も明確です。市場は大きく「みんなの再生医療」になるでしょう。ビジョンはここにありました。
我々のほとんどの臓器は、上皮性幹細胞と間葉性幹細胞という2種類の細胞からできています。最大の壁になったのは、これらをどう「組み立てる」かです。実際、世界中で30年かけても効果的な培養方法は見つかっていなかった。僕らが着眼したのは組織工学的に細胞を接着させる足場材料を使うのではなく、細胞を自己組織化させる方法。バラバラ状態の高密度細胞をコラーゲンの中に注入して身動きできないようにすると、細胞同士が反応して固まり、自己組織化するのです。この「器官原基法」を開発したのが07年で、『Nature Methods』に掲載されました。
世界に先駆けて開発された器官再生技術は、そのインパクトの大きさから各国のメディアにも多々取り上げられた。それは、辻が常に気にかけている「社会ニーズとの合致」を証明するものでもあった。ここから辻たちは、ブレイクスルーとなった器官原基法をもとに毛包や唾液腺、涙腺と対象を広げ、加速的に研究開発を進めていく。
世界中で大変な騒ぎになった当初は、逆に怖かったんですよ。発表段階では「細胞の組み立て方が正しい」ことを証明したのですが、新聞には「細胞から歯を再生!」などという文字が躍り、もうできちゃったみたいな……。他方、専門家たちからは「タネを埋えたところで、歯が生えてくるわけがない」と言われ、僕も研究室の学生たちも、大波にもまれてグルグル状態でした(笑)。
その実証に成功したのは2年後。マウスの歯の抜けた部分に再生した歯のタネを移植すると、再生歯が発生することを確認できたのです。そして再生歯が成長すれば周りと連携機能し、神経も接続してくる。世界発の器官再生の概念実証になりました。これは、研究室の学生30人が皆で勝ち取った仕事です。絶対無理とまで言われるなか、学生たちは涙を流しながら……。僕の研究室は、ある意味、ブラック状態だったと思いますが、しかし、アーリーステージで1回でも成功体験を得ることができれば、学生にとっても大きな価値につながると信じていました。
以降の毛包や唾液腺、涙腺も原理原則は同じです。特に社会の関心や市場が大きい毛髪でいえば、マウス実験での再生に成功したのが12年で、現在はヒトでの臨床研究の実施に向けて準備を進めています。涙腺や唾液腺の再生は、加齢などで起きるドライアイやドライマウスの治療につながる。こういう世界の多くの人が待っている再生医療を、日本発のイノベーションで大きく産業化するのが僕の夢なんです。
※本文中敬称略
豊かな社会を見据えて。産学連携を柱に社会還元を推進
ラボでつくった開発シーズを応用研究や実用化につなげるため、ベンチャー企業「オーガンテクノロジーズ(オーガン)」をスタートさせたのは08年のこと。また、理想の研究環境を求めて「器官再生工学プロジェクト研究棟」の建築にも携わるなど、辻は研究開発を取り巻く環境整備にも尽力してきた。そして現在はステージを変え、理化学研究所・生命機能科学研究センターで活動している。そういった仕組み構築は、辻にとってますます重要な役割になっている。
理科大時代に初の寄付講座をつくった際、ご縁のできた大塚化学ホールディングスの戸部貞信社長(当時)の支援を受けて設立したのがオーガンです。ここから僕は研究費に困ることなく研究を続けてこられたし、こだわり抜いた研究棟も建てることができた。これなくして、僕の展開は語れません。今は、オーガンは理研ベンチャーとして、理研とタッグを組み、器官再生医療やウエルネスイノベーションの開発と事業化を進めているところです。
最近では、基礎研究に対する投資が少ないという声をよく耳にしますが、いつの時代も戦略的展開はあるわけで、必ずしも基礎研究が軽んじられているわけではないと思う。むしろ喫緊なのは、産官学をシームレスにつなぎ、基礎研究から日本の産業発展の仕組みを構築すること。シーズは研究者がつくり、社会実装は企業がやる、その連携を強化していけば、限られた資源、世界の研究や産業化が加速しているなかでも、日本の産業を大きく推進する原動力になります。
僕はこれまでに、世界トップ水準の基礎のイノベーションを戦略的に進めてきました。今、次のステージとして注力しているのは、まさにこの産学連携。大学で進めてきた器官再生などの基礎のイノベーションを社会に還元するために、理研の科学ハブ機能として日本の未来の創造に向けて空間的に連携を広げているところです。
研究領域も健康長寿社会の実現に向けて広げていて、現在進めている「毛髪で健康診断」プロジェクトは、民間企業21社プラス理研で取り組んでいます。これは、毛髪の情報を集めてビッグデータをつくり、健康指標や病気の診断として活用を目指すもので、ヘルスケア産業における新機軸になるんじゃないかと。日本の国民医療費はもう頭打ちでしょう。これからの再生医療を、国民医療費の負担増にならないよう普及させていくのと併せて、病気にしないで健康を維持するヘルスケアにも科学軸を入れる研究開発が重要だと考えています。
「新しい技術を創出してどれだけ人の役に立つか、世の中を豊かにするか」。幾度となくそう言葉にする辻の根っこには、やはり強い社会貢献意識がある。そして、走り続けてきてなお、「やりたいことの10分の1もできていない」と言う辻の胸には、研究者としてのプライドが刻まれている。
本来やりたかった大型の臓器再生にも迫りたいし、これまでの成果を社会実装してインフラを整備すれば、いろんな臓器に置き換えていける。それは10年後、20年後かもしれないけれど、僕がイメージしているのは、キャビネットを開ければ、患者さん向けの様々な臓器が育てられているような状態。この臓器を育てるという研究開発も進めています。生物のからだの仕組みを前にすれば、僕はまだまだ門前の小僧で「何も出来上がっているわけじゃない」という気持ちになるんですよ。
あとは、プレイヤーであり、ディレクターとしてやってきた2軸の重さをそろそろ変えていく時期かなと。例えば、基礎のイノベーションから臨床研究に入るまでには10年かかり、それが社会実装されるのにまた10年かかるわけです。そう考えると、基礎研究のシーズは若い人たちからどんどん生まれる環境をつくる必要があります。僕は、自分がその役割を果たす時期を迎えているように思うので、マネジメントに軸を移していきたいと考えています。
そして、これからの若き研究者に望むのは、新しい日本の社会をどう創造していきたいか、研究を通じて何を創造したいのか__しっかりとしたベクトルを持ってもらうこと。研究の領域も組織も関係ない、自分自身の哲学とベクトルを。僕自身ももがき、その大切さがよくわかるから、「何のための研究開発か」のメッセージを発信するような活動をしたいですね。加えて、これも僕の実感ですが、研究って、もっと自由に未来感を持って取り組めば、どこまでも道は開けるということも伝えていきたい。だって、全然サラブレッドではない僕でもここまで来られたのですから(笑)。
※本文中敬称略
Profile
国立研究開発法人理化学研究所
生命機能科学研究センター器官誘導研究チーム チームリーダー博士(理学)
辻 孝
1962年1月19日 | 岐阜県美濃市生まれ |
---|---|
1986年3月 | 新潟大学大学院理学研究科 修士課程修了 |
4月 | 山之内製薬株式会社 (中央研究所)入社 |
1992年3月 | 九州大学大学院理学研究科 博士後期課程満期退学 |
4月 | 新潟大学大学院自然科学研究科 研究生 |
1994年4月 | 日本たばこ産業株式会社 (生命科学研究所)入社 |
2001年4月 | 東京理科大学基礎工学部 生物工学科助教授 |
2007年4月 | 東京理科大学基礎工学部 生物工学科教授 |
2008年4月 | 株式会社オーガンテクノロジーズ設立 現在、研究開発担当取締役 |
2009年4月 | 東京理科大学総合研究機構教授 同大基礎工学研究科教授 |
2014年4月 | 独立行政法人理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 器官誘導研究グループ グループディレクター |
2015年4月 | 国立研究開発法人理化学研究所 多細胞システム形成研究センター 器官誘導研究チーム チームリーダー |
2018年4月 | 国立研究開発法人理化学研究所 生命機能科学研究センター 器官誘導研究チーム チームリーダー |
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