匂いをデータ化し遠隔地で再現する
風景(視覚情報)はカメラで撮影し、ディスプレイで再現できる。音(聴覚情報)はマイクロフォンで録音し、スピーカーで再生できる。同じように、〝匂い(嗅覚情報)〞もデータとして記録し、デバイスを通して再現できるのではないか‒‒。東京工業大学の中本高道教授は30年近くにわたって、匂いをデータ化し、再現する装置の研究開発を進めてきた。
「現在までに、センシングシステムによって識別した匂いのデータをインターネットなどで遠隔地へ送り、嗅覚ディスプレイを使ってある程度再現できるところまで研究が進んでいます」
そもそも人間がどこで匂いを感知しているかというと、鼻奥の細胞に発現する「嗅覚受容体」である。匂い物質が嗅細胞で受容されると、各嗅覚細胞が匂い物質ごとに異なるシグナルを出す。この信号パターンを脳内で認識し、どのような匂いかを識別しているのだ。人間の受容体数は約400種。それらの受容体から得られるシグナルを複合的に用いることで、人間は膨大な種類の匂いを識別できる能力を持つといわれている。
匂いの記録、すなわち〝データ化〞において、中本研究室では、生物の嗅覚機構を模した匂いセンサーから得た信号をニューラルネットワークでパターン認識し、匂いを識別するセンシングシステムを開発している。難しいのは、その再現だ。
「匂いには、色における光の3原色のような〝もと〞がそもそもいくつあるか判明していないため、目的の匂いを嗅覚ディスプレイで完璧に再現することが難しい。再現できるのは、あくまでも〝近似の匂い〞です」
約400種の受容体の組み合わせを検証しながら、ターゲットの匂いを生成することは困難なため、中本教授は、すでにある匂いのデータをいくつかの要素に分解して、その匂いのもとになっている〝要素臭〞を見つけ出す手法を用いている。
「現在までに200種類ほどのサンプルから要素臭を探索しました。同じ要素臭の配合でも、構成比を変えることで、様々な匂いをつくることができます」
もっとも、要素臭を即座に合成する装置の製造は容易ではなく、中本教授は「要素臭の数は極力減らすことが重要。30種程度があれば、大半の匂いは再現できると考えています」と語る。
ものづくりの喜びが研究の推進力
ある匂いがどのような要素臭で構成されるか瞬時に分析し、データ化することは簡単ではないが、もしそれが可能になり、匂いをどこでも再現できるようになれば、いったいどんな世界が実現するのか。中本教授は「いろいろな可能性が考えられます」と期待を込める。
「ECサイトで洋酒や果物、香水などを購入する際、香りを確かめることができますし、ゲームや映画などのコンテンツに香りを加えることもできるでしょう。いずれは、クリエイターやITエンジニアが匂いや香りを使って魅力あるコンテンツを生み出せるようになるところまで持っていきたいと思っています」
実際に中本研究室では、東京藝術大学とのコラボにより、匂い付きカレー料理ゲームなど魅力的なコンテンツを開発した過去がある。それをさらに推し進めて香り付きコンテンツを一般化するには、「より高性能なデバイス開発が欠かせません」と中本教授は意気込む。そんな中本研究室には、約20名の学生が在籍。特徴は、博士課程へ進む学生が多いことだ。
「当研究室では匂い自体を扱い、ディープラーニングも駆使しますが、要となるのは〝ものづくり〞。嗅覚ディスプレイの開発では、香りを識別するための集積回路も自作します。もちろん簡単ではなく、試行錯誤が必要です。しかし、苦労の末に完成に漕ぎつけた時の喜びはひとしお。その瞬間の喜びを忘れず前に進んでいってほしい。学生たちにも、そんな話をしています」
中本高道
教授 博士(工学)
なかもと・たかみち/1984年、東京工業大学理工学研究科電気電子工学専攻修士課程修了後、日立製作所に入社し、LSI自動設計ツールの開発などに従事。87年、東京工業大学工学部電気電子工学科助手として大学へ戻り、93年、同学科助教授。96年、米国Pacific Northwest研究所客員研究員を経て、13年より現職。
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